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2007年3月19日 (月)

移転のお知らせ

諸般の事情から、このブログを移転いたします。

http://pub.ne.jp/ssk1947/  Hiro's blogとして今後も継続させていきますので宜しく御願い致します。

2007年3月14日 (水)

石綿による健康被害の救済に関する法律

2005年の暮れに当時の主治医M医師より、悪性のびまん性胸膜中皮腫上皮型と告知されて以来、当時話題になっていたアスベスト関連法案に関心をもつと同時に、ネット上で出来る限りの中皮腫に関する情報を集めました。

2006年3月17日より石綿健康被害救済給付の申請・請求等の受付開始となり、私も既に取り寄せていた申請書類やレントゲン・CT・MRI病理検査関係の書面等を主治医より借り受け、用意してもらい郵送にて、独立行政法人環境再生保全機構宛てに申請いたしました。2006年7月12日認定申請に係る認定(第2回)にて漸く認定され、当福島県は第一号認定患者となったわけです。

同年8月より、療養手当ての給付と共に前月に交付された石綿健康被害療養手帳も有効となり、石綿健康被害に拘わる治療費はその一切が公費負担となったのです。石綿による健康被害の救済に関する法律が発効した2006年3月27日以降の治療費も申請によって還付され8月からの外来診療における自己負担金約3万円弱も公費負担となった為助かりました。

2007年3月 9日 (金)

通院から再入院へ

2006年6月9日より通院による化学療法が始まりました。シスプラチン+ジェムザールに替えて、ジェムザール+ナビルピンによる治療です。

ナビルピンと言うのはアフリカの夾竹桃の一種に由来する抗腫瘍薬でかなり毒性が強く薬品の種別を見ても毒と記載されているほどです。実際の治療過程は、先ず吐き気止め、ナビルピンを全開で点滴、ジェムザールを30分掛けて点滴して終了です。主な副作用は、私の場合全身の倦怠感と血管痛に加え、手足に発疹が出来るくらいでした。一週間おきの外来治療を二回実施した時点で、左腕上腕部の静脈一本がその機能を永遠に失ってしまったのには驚かされました。三回目以降の点滴時にはナビルピン終了後直ちに生理食塩水にて血管洗浄を実施する事によって防止できたのには安心しました。月が変わり7月中旬過ぎに39度強の発熱が二日程あり、同月21日の外来では治療を中止し、入院検査を勧められましたが、一旦帰宅する選択をしたのが間違いでした。

25日過ぎ頃から、疲労感と息切れの症状がかなり重くなり自力で8月には入院しようと思っていたのですが、そんなゆとりは無かったようです。7月31日、朝より甚だしい息切れに襲われ、救急車を依頼する事になりました。救急隊員と西ノ内病院呼吸器外科担当医師とのやり取りで、防災ヘリでの搬送の同意を求められましたが、さすがに遠慮して救急車によって郡山まで搬送されたのでした。救急外来での検査の結果、MRSA(多剤耐性黄色ブドウ球菌感染症)肺炎と共に間質性肺炎の可能性が高いとの事で、最悪3日の命と言われ覚悟をしたものでした。救急外来から5A病棟の個室に移り、ステロイド剤と抗生物質の大量投与にって何とか危機を乗り越え、4日めからは以前の病室に移り、8月12日に退院する事が出来ました。

今回の肺炎の原因は抗がん剤の投与による免疫力の低下であり、いっそうの感染予防の必要性を実感しました。なんと言っても、片肺の身にとっては肺炎は命取りで有り今回のような幸運に何時も恵まれるとは限らないと言う主治医の言葉の重さを実感しました。

2007年3月 7日 (水)

放射線療法から退院へ

化学療法のワンクールが終了し、点滴の針が全て抜き去られ身軽になったのは4月下旬の事でした。喜び勇んで50日ぶりの風呂に入浴したものでした。不思議なほど手術跡の傷は痛まなく、胸腔ドレナージ跡がたまにちくちくする程度でした。

身軽になり血液検査のデーターも改善された事からGW明けから放射線療法を実施する事となりました。それと共にGW中の一時帰宅が許可され新緑に輝く国道288号を帰宅の途に就いたのです。50日ぶりのビールと焼酎、焼肉の晩飯を楽しんでツクヅク生きていて良かった、手術を受けて良かったと感慨ひとしおでした。三日間の一時帰宅を終え、病院では先ず放射線科の医師によるカンファレンスとCT検査を受け、照射部を確定した上、一日当りの線量を3グレイ、17回で合計51グレイの照射を行う事になりました。一週間のうち平日5日間大体午前中にリニアックによる放射線治療を受けたのです。

5号館5階から2号館地下1階のリニアック室までの往復と、隣接するイトーヨーカ堂への外出が良いリハビリというか体力回復に役立つと同時に、病院食では味わえない買い食いを楽しみました。放射線による副作用も無く、快適という言葉が当てはまるのかは疑問ですがそれなりの病院生活を送り、主治医からも放射線治療が終われば退院する事の許可も得て、2006年6月6日晴れて退院を迎える事が出来ました。翌6月7日は私の誕生日でも有り、ささやかながら祝宴を設けました。

2007年3月 6日 (火)

胸腔内洗浄から化学療法

一般病室に移動して数日、37.5~38.5程度の間で熱が上下していました、又数日おきに実施される血液検査の炎症反応が低下しない事等から、胸腔内洗浄を実施したのですが、胸腔内のフィビリン膜が邪魔をして洗浄効果が出ないため、3月28日に胸腔内視鏡下にて摘出手術を実施する事になりました。

感染の危険を避ける為に手術室での実施となり、再度本館三階の手術室に向かいました。手術室は滅菌・加圧してあるため雑菌の進入による感染を相当程度防いでくれるとの事でした。手術台に横たわり、主治医のY医師が局所麻酔を右胸部に注射し開始です。同じく主治医のT医師が内視鏡を操作し、Y医師がモニターを見ながらフィビリン膜を切除していきました。今回は局所麻酔のみの為意識は鮮明であり、内視鏡のモニターをはっきりと見ることが出来、ワクワクした事を覚えています。胸壁より垂れ下がったフィビリン膜を次々と切除していくのを目の当たりにし約一時間、最後には洗浄用の生理食塩水を注入すると自分自身の胸腔内にまるで蛇口から注がれるように注入されるのが見え不思議な感動を覚えたものでした。術後は麻酔が完全には抜けていないため、車椅子にて病室に戻りました。この日よりほぼ一週間、毎日右胸上部より500CCの洗浄水を注入し下部のドレン吸引機に排出する作業を実施した結果、発熱も収まり、炎症反応も好転したのでした。

症状も改善され、体力もそこそこに回復してきた為、化学療法を開始する事になり、先ず一回目はシスプラチン+ジェムザールの組み合わせで行いました。早朝5時過ぎより開始し、終了は23時頃でした。ジェムザールは吐き気止めを含めても小一時間で終わるのですが、シスプラチンが毒性というか副作用が強いとの事で嘔吐予防薬と生理食塩水の大量点滴の為に時間が掛かると説明されました。専用の嘔吐予防薬が開発されるまでは七転八倒の苦しみだったそうです。終了後一週間おきにジェムザールの点滴を3回実施してワンクールの終了です。覚悟をしていた吐き気や脱毛といった副作用も無く同室の同じような境遇にある患者からは羨ましがられました。酷い人は食欲が無いばかりか、気力の減退や髪の毛の脱毛等に悩まされていました。

個室から一般病室へ

HCUでの監視看護もおわり、ナースステーション近くの個室に移り、より自由な移動が出来るようになったのを契機に、排尿チューブを抜き去り、個室内のトイレにて用を足す事が出来るようになった事が喜びでした。この病院では、術後の重症患者や主治医の判断で認められて個室に収容された場合は差額ベッド代が不要になるため、非常に快適な術後生活を送れました。ただ、相変わらず点滴と酸素チューブが必要なために歩行器がないと移動できないのが不自由といえば不自由でした。概ね一週間ほどの個室生活で、体力が相当に回復してきたため、漸く一般病室に移る事になり、ほっと一安心したものでした。やはり、自分の希望ではなく何時までも個室に収容されていると、自分の回復程度に不安を禁じ得ない物も有りましたね。二~三日後には酸素チューブや歩行器とも別れて、より身軽な療養生活となりました。

2007年3月 5日 (月)

HCUに来て

HCUに来て二日目、身体に挿入されたチューブは少なくなり、点滴二種類と神経ブロック用の麻酔のみになりました。相変わらず食欲は無く痛みもないのですが、排尿用のチューブが膀胱に挿入されているため、毎日実施される感染防止の為に下腹部を看護婦に洗われるのが情けないというか・・・微妙でした。

三日目に入って、ベッドの上でのレントゲン撮影の結果、無気肺が見られると言う事で
午後三時に気管支鏡検査を受ける事になりましたが、昼過ぎになって呼吸困難になり、
予定時間前に主治医のY医師による検査と痰の吸引を処置してもらい一息ついたのですが、呼吸困難を起こすほどの痰の量ではないとの事で急遽CT検査を受けました。結果は左肺にも胸水の貯留が見られると言う事で、再度、ドレンの吸引を左右両肺から行う事になったのでした。左肺への胸水貯留の原因は手術時に傷ついた縦隔膜の穴が閉じる前にドレン吸引チューブを抜いた為と説明されました。二台の吸引機と点滴、排尿タンクをぶら下げた状態ではさすがにベッドを降りるのが億劫になり二日後に左肺の吸引チューブが外れるまではほぼ寝たきり状態でした。

HCUに収容されて六日目、やっと歩行器に掴まりながら、ベッドを降りてフロア内を歩いてみました。術後たかが一週間寝たきり状態だったのに筋肉の落方は尋常ではない状態で、情けなくなったことを覚えています。

2007年2月25日 (日)

2007・2.23

たまには、直近の話題でも書いてみます。一昨日の23日、定期検査のために西ノ内病院に赴きました。午前9時台の予約の為に自宅を6時頃に出発、288号を平均50キロ程で走り、8時前には到着です。

今回は採血検査が無く、レントゲンのみなので気軽なものでした・・・入院中の各種採血検査や点滴の為に両腕の血管が隠れてしまい、現在単なる採血は足首の静脈から採血しています。・・・9時過ぎには診察が始まり、主治医のT医師に新薬承認され発売になったばかりのペメトレキセド(アリムタ)による治療を受けるために3月下旬なら入院可能と申し出たのですが、現状目立った腫瘍の変化というか活動が見られないので、3月中旬に造影CT検査を実施した上で判断しようといわれました。又、昨年の手術前に、術後2年生存確率が30%と言われていたので、まもなく術後1年を迎えるが術後1年生存の場合、平均余命はどのくらいかと尋ねましたが、術後1年未満で10人中7~8人が亡くなっているデーターは有るが、平均余命のデーターははっきりしないという事でした。化学療法と放射線治療の効果が出ているのだろうと思います。

又、痛みですが、手術による50~60針に及ぶ切開後の痛みとか、胸膜・肺の摘出による痛みといのは殆ど感じないのですが、ドレン吸引や、胸腔内洗浄の為に開けた穴の縫合跡、特に大胸筋の縫合跡が若干痛む程度で、鎮痛剤のロキソニン服用で耐える事が出来る程度です。

今後は、過去の闘病記ばかりではなく折に触れ現在の状況も記載していこうと思っています。

2007年2月21日 (水)

生還初日

目覚めたのは、翌9日の9時頃ではなかったかと思います。成功したのだろうかと、ぼんやり考えていた所へ看護婦が来て具合を尋ねていった後、漸く、ICUのベッドにいると確認できました。そうこうする内に、Y医師が来て無事手術が成功した事を告げてくれ、待機していた家族との面会を許可してくれました。一人づつの面会でしたが、皆ほっとした表情をしているのをみて、漸く成功した事を実感できました。面会が終わって暫くして、Y医師が診察し、問題が無いと言う事で5A病棟の5階HCU室に移る事になり、Y医師他看護婦4人ほどで病棟のベッドに移して移動したのです。

HCU室と言うのはフロアのナースステーション脇にあり、手術後や重篤な患者などを収容する簡易ICUとでも言えば良いのでしょうか。ベッド数は5台ほど有りました。やっと家族全員と話が出来る状況になり、昨日の手術後の執刀医からの説明内容を教えて貰ったのです。手術時間が予定を越えて9時間あまりであった事、右肺と胸膜は摘出できた事、腫瘍に関しては90%は摘出できた事、縦隔付近のリンパ節や神経節は摘出していない事など、又、摘出した右肺の大きさに驚いたとのY医師の言葉も教えてもらいました。許可が出るまでは水は飲めず、氷を含んで喉を潤す位が唯一不満だった事でしょうか。体の痛みは殆ど無かったのですが、右腕静脈に二本、動脈に一本、左腕に一本の針が刺さり点滴を受け、膀胱には排尿チューブが挿入され、右胸脇には相変わらずドレン排出吸引機、鼻には酸素チューブ、胸には心電図の電極がはってあり、まるでチューブ人間のようでした。背中の脊髄付近には相変わらず麻酔の針が刺さっており、麻酔薬の入ったタンクを胸からぶら下げて自動的に注入している所為か、術前にある程度の痛みがあるものと覚悟をしていたのですが、全くといって良いほど痛みが無く助かりましたが、ある意味、拍子抜けした事も事実です。

術後初めての食事は、薄い重湯でしたが、全く食欲が無く、一口も口にしませんでした。
こうして手術から生還しての一日目が過ぎていきました。

2007年2月20日 (火)

手術日

2006年3月8日、手術当日です。早朝5時に起床後、静脈確保のための点滴や、生まれて初めての浣腸、長時間に及ぶ術中のエコノミー症候群予防のためのタイツの着用、術後の病室変更に備えての身の回りの整理などをしているうちに、予定時刻を迎え、看護婦に導かれながら昨夜から泊り込んでいる家族たちと共に本館3階の手術室へと向かいました。

手術室フロアの手前で家族と別れ、幾つもの手術室が並ぶフロアに入っていきました。六つ目か七つ目の手術室に入ると、昨日の麻酔科医師や担当看護婦達に迎えられ、手術台に上がったのです。思ったより小さな手術台で、寝返りを打とうものなら落ちてしまうほどの狭さでした。病衣と下着も脱ぎ去り、下半身にはバスタオル様の物を掛けられて、左胸を下にして横たわりました。室内はかなり冷房が効いていたように思います。

血圧計や指先での酸素測定器足首からのアース線(電気メス使用の為)の接続など準備をしているうちに、主治医のT・Y両医師が入室し、にこやかに安心して眠っているようにと告げ、脊髄脇に局部麻酔を注射の上、3本の神経ブロック用麻酔針を刺し込み、肩口に全身麻酔の注射を打ったのです、未だ、意識のある内に人工呼吸器兼麻酔ガス吸入用のチューブを咥えされ、ゆっくりと数を数えるように指示されたのでした。それ以降の意識はICUのベッドで目覚めるまでありませんでした。

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